関西大学校友会 堺支部
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行事報告


【第15回 逍遥の会】 2003年11月24日

<古墳と緑の町のロマン散策> ― 百舌鳥古墳群・大仙公園―

雨模様の中、今日一日、天気であってほしいと第15回逍遥の会、古墳と緑の町のロマン散策で、堺の昔を偲ぼうと期待に胸をふくらました兵7名が、百舌鳥八幡駅(南海高野線)に、午前9時30分に勢ぞろいいたしました。

小川会長より、散策コースの略図と史跡の説明書の配布を受け、まず最初の目的地、百舌鳥八幡宮に向けて出発いたしました。
大きな由緒のありそうな屋敷と最近に新築された洒落た、家々の間の小道を抜け、国道310線をわたり、鳥居をくぐり、百舌鳥八幡宮に近づきました。
まず、境内の東北部に、光明院と言う、落ち着いた佇まいの庵があります。
この庵は、光明皇后の発願により、729(天平元)年に創建され、僧行基の開祖と伝えられている。仏頂山金輪寺光明院と称し、高野山真言宗金剛峯寺に属し、金輪仏頂釈迦如来を本堂に、子育地蔵菩薩、十一面観音菩薩を、脇仏として安置しているそうです。境内を散策しながら、天平時代を想像し、改めて堺の歴史の奥深さに、身が引きしまる思いがいたしました。
次に、百舌鳥八幡宮の本殿一帯が、淡い赤色の敷石で整備され、樹齢800年、周囲が4mほどあろうかという大楠(大阪府指定の天然記念物)が、自然の偉大さを語りかけるように、我々を迎えてくれた。
この百舌鳥八幡宮は、欽明天皇(532〜571年)の頃に建てられたものと伝えられ、まず、本殿に参拝し、記念写真をとり、その後境内を散策しました。
境内には、七・五・三まいりの家族連れが、記念写真をとっていたり、朝の散歩をかねた参拝者がおられる程度で、静かで本殿の階段から南西の鳥居まで、整備された様子が一望できます。
この境内で中秋の名月には、露店が所狭しと埋め尽くし、老若男女であふれかえり、大小16基のふとん太鼓が、繰り出す勇壮な月見祭が、催される同じ場所かと思われます。

次に、高林家に向かう。高林家は、公開されていないので、屋敷周りを見学し、堺市博物館に向かいました。
バス道路をとおり、JR阪和線百舌鳥駅の南側の踏切を渡り、大仙公園にさしかかると、赤・紅・黄に染まる錦秋の情景が、迫ってまいりました。
晩秋のすばらしさは、たとえようがない。木々の多彩な色づき、舞い散る枯葉、道路に敷き詰められた落葉、人は、齢を重ねるほど、秋の情景に取り付かれるのでは。
まず仁徳陵に参拝し、あらためて木々の美しさと、堀がきれいになったことを喜びました。
この仁徳陵のある百舌鳥古墳群は、北は反正陵、南は仁徳陵を経て履中陵の周辺、東は二サンザイ古墳辺りの、南北約4.5KM、東西約4KMの台地上に分布する古墳を呼び、築造は4世紀後半から6世紀前半で、46基が現存、かっては100基以上あつたことが確認されています。 
仁徳陵古墳は、周囲2.718M、面積464.124u、高さ35Mの世界最大級の前方後円墳で1500年の昔、堺で築造され、エジプトのクワ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並べられ、世界三大古墳の一つといわれています。

次に、大仙公園を横切り、堺市博物館に向かいました。この博物館は、堺市制90周年の記念事業として、市民の浄財21億円で、1980(昭和55)年に建設されたものです。
屋根は、銅版づくり落ち着いた感じで、周囲の風景に融けこんだ様子は、堺市民として誇れるものです。
玄関を入ると、校友でもある中野 壽堺市博物館副館長と増田達彦堺市博物館学芸課研究員の出迎えを受けました。
まず、古代の仁徳陵古墳の築造の様子や、1872(明治5)年前方部で発見された石室と石棺図をもとに、復元した石棺や甲冑と埴輪の展示の説明を受けました。築造当時は、石で積み上げられ、木が一本もなかったそうです。
また、世界の三大墳墓(仁徳陵、エジプトのクワ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵)を比べた模型の展示を見て、仁徳陵の大きさに驚き、古代人の偉大さに感心いたしました。
次に、中世では“自由都市堺―東洋のヴェネツィア”と言われ、歴史上脚光を浴びた時で、当時の堺の町を描いた絵(住吉祭礼図屏風)や発掘の成果を元にした堺町並模型、日本最大の火縄銃の説明を受けながら、当時の堺の繁栄を偲び、再び堺にこの繁栄を取り戻す「手立て」について、話が盛り上がりました。

最後に、平成15年度企画展「宣教師が見た堺―発掘成果からの生活復元―」の説明を受けました。
これは、戦国時代堺の町は、平和で自由の貿易都市として栄え、1550(天文19)年フランシスコ・ザビエルの来堺以後、イエズス会の宣教師たちは、続々と堺を訪れたそうです。彼らが、本国に書き送った堺の町の様子や当時の出来事、日本人の習俗・習慣やこまやかな日常生活にいたるまで記したものをもとに、20年ほど前から数多くの発掘調査したもので、考証し復元したものです。その当時の町並日常生活の息遣いが、伝わってくるようです。特に印象に残った説明は、当時の日本では、すでに箸を使い、器用に食事をすることに、宣教師が、驚いたそうです。当時、西欧では、手でつかんで食事をし、フォークを使うようになったのは、17世紀に入ってからのことであったそうです。
懇切な説明を受け、“中世の堺”の繁栄振りに感心し、副館長中野様と増田様に御礼をいい正面玄関で、全員の記念写真をとりました。その後、博物館を後に、昼食に、百舌鳥駅前の食堂へ向かいました。

昼食後、再び大仙公園に戻り、堺市茶室に向かいました。
敷地内に入ると、茶の湯の求める清浄さと、素朴で自然の純粋さに満ちていました。
まず、入って左手奥に、石塔が眺められます。これは、国指定の重要文化財の九重石塔であります。元は南河内郡千早赤阪村の浄土寺にあったもので、高さ3.6Mで、下段に、1306(嘉元4)年の年号が、刻まれておりました。
次に、素朴で、質素で、凛と感じる黄梅庵を見学いたしました。
この茶室は、奈良県高市郡今井町の今井宋久所領の茶室を、故松永安左衛門(耳庵)翁が、小田原の地に再興されたもので、この庵は、堺に縁のあるものとして、堺市の市制90年記念事業の一環として、相続人松永安太郎氏から寄贈をうけ、1980(昭和55)年10月に、大仙公園内に移築されたものです。

次に、隣接する、1922(昭和4)年に名匠仰木魯堂設計で造られた「伸庵」を、見学いたしました。
この「黄梅庵」、「伸庵」いずれも国の有形文化財に、登録されているそうです。
伸庵の立礼席で、抹茶を楽しみました。その後、平和塔の前を横切り、日本庭園に向かいました。
この日本庭園は、新しい国際都市、堺の市制100周年を、記念して生まれました。
総檜づくりの門を抜けると、池泉に浮かぶ、和風建築の約380uもある総檜づくりの休憩所が、目にとび込み、視界が両側に広がり、庭園のすばらしさに驚かされました。 
この日本庭園は、パンフレットによりますと、築山・池泉・流水―造園技術の粋を集めたもので、仁徳陵と履中陵の間、26.000uの地につくられた、築山林泉回遊式庭園で、遠い昔から、世界に向かって開かれていた、先端都市堺の進取の気概が、刻まれています。
対明貿易で、重要な役割を果たした会合衆(納屋衆)の集会や、連歌等を楽しんだであろう「流杯亭」。豪商の強力な経済力とは、うらはらな「わび、さび」を漂わす佇まいー。
活躍の場を、世界に求めた勇気ある先人たちは、伝統の庭園に残した足跡でもって、今日に生きる人々に、明日への道を、指し示しているようです、と。
「桃源台と流杯亭」、「杜若池と青台亭」、「傘亭」、「廬山」、「甘泉殿」と回遊し、池・泉・渓流・せせらぎ・色々な山々を観賞し、堪能しました。
「こんな素晴らしいところが、堺にあったのか。」、「なぜ、もっと市民に、P・Rしないのか。」「どのくらいの市民が、この場所を知っているのか。」と、いろいろな意見が、出ていました。
まず、ひとりでも多くの、校友会堺支部の会員の皆様に知っていただき、来園を願い、口コミで、広げていっていただけたらと感じました。

回遊の途中で、降り出した雨が、本降りとなり、暫く、雨宿りをするが、止みそうにないので、傘・コートで装備し、仁徳陵の西側の周遊路をとうり、堺市役所の21階の展望所に向かいました。 到着すると、正面玄関には、電気工事の関係で、本日は、閉鎖しているとの掲示があり、高島屋堺店に向かいました。
高島屋堺店の喫茶店で、今日一日の感想を述べ合いながら、“コーヒ”、“ぜんざい”をいただき、有意義な一時をすごし、次回を楽しみに解散しました。

辻尾 健一郎

<堺市博物館前にて>
堺市博物館前にて

<光明院山門>
光明院山門

<百舌鳥八幡宮>
百舌鳥八幡宮

<高林家にて>
高林家にて

<伸庵にて>
伸庵にて

<日本庭園>
日本庭園

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