関西大学校友会 堺支部
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行事報告


【逍遥の会 (第19回)】 2006年5月20日

<新緑の古くて新しい堺の町を訪ねて>

5月20日朝9時30分、南海高野線堺東駅前に集合し、逍遥の会小川会長以下12人、タクシーで南海本線七道駅へ移動。そこで今回は堺観光ボランテイア協会カイド村田信彦様(関大OB・S40経卒)、森康子様の案内のもと、10時すぎ出発。

先づ七道駅前にある河口慧海の銅像を。彼は慶応2年堺に生まれた禅宗のお坊さんで、明治33年幾多の困難を乗り越えつつ、ただ一人チベットに入国。彼の目的は、仏教の源泉を尋ねることにあったが、日本人として初めて、ヒマラヤ踏破者となり、世界的に貴重な、経典、仏像、民族資料、新発見17種を含む多数の高山植物標本をもたらすことになった。故に、河口慧海は日本チベット学の祖と言われている。

次に鉄砲試射場跡。わが国に初めて鉄砲が伝来したのは、天文12年である。堺の貿易商人橘屋又三郎はいちはやく種子島より鉄砲技術と射撃術を持ち帰ったと言われている。
また紀州根来の津田監物算長も伝来の銃を持ち帰り、堺出身の刀工芝辻清右衛門に鉄砲を造らせた。清右衛門は、豊臣秀吉の「根来攻め」のあと堺に戻って製造をつづけ、鉄砲鍛冶芝辻一門の祖となった。
堺の鉄砲の製造は、芝辻一門、榎屋一門など多くの鉄砲鍛冶によって国内最大の生産量を誇った。それとともに試射場も次々造られ、この七道のあたりにも江戸時代初期につくられた試射場が昭和の初めまでその面影を残していた。
ついで高須神社に参拝。このあたりを散策中、早朝は晴れていた天気が、9時すぎには曇り、時々小雨が降っている程度であったが、ここにきて天気予報通りかなりの雨(にわか雨)となり、幾人かがホームセンターで傘を買う羽目になった。

次に、奈良時代の名僧で諸国を巡り、社会事業に尽くした行基が手がけたといわれる千日井の碑をみて、一路風間寺へ。
元和元年大坂夏の陣で約2万戸いわれた堺の町は全焼した。その復興を担当したのは、地割奉行として就任した風間六右衛門は町割を碁盤目ように計画、実施した。これを元和の町割という。
しかし六右衛門も祖先と同様日蓮宗の信者だったので、寺の地割の際に日蓮宗に広い土地を与えたため、他の宗派の不平、反感を買い、元和4年8月徳川幕府から江戸へ来るよう命じられたが、責任を感じた彼は日蓮宗のために一身を捧げる覚悟で8月15日江戸へ行くと称し、自分が地割りした堺の町を出たこの地で、割腹自刃した。行年47才。堺の人々は彼の死を悼み自刃の地に風間堂を建て、懇ろに供養したのが始まり…。江戸時代も現在も変わらぬ地権争い。

少し歩いて、鉄砲鍛冶屋敷(今も子孫が住んでおられる井上邸)。この辺りは第2次世界大戦の戦災を免れたため、江戸後期を偲ばせる古い街並みが残っている。井上邸はただ一つ現存する当時の鉄砲鍛冶屋敷である。
次に山口家住宅 (今も子孫が住んでおられる)。大坂夏の陣で焼失したが、新しい町割により再建されたものと考えられる。 元禄2年の堺大絵図には越前屋久右衛門家として記載されている。全国的にも江戸前期の町屋例として極めて貴重な民家で、昭和41年6月11日、国の重要文化財に指定された。
しばらく歩いて曽我廼家五郎の生母の実家として知られる浄因寺をたづね、次に与謝野晶子とゆかりのある覚応寺へ。ここまで来ると雨もやみ、散策にはよい天気になっつてきた。

次に、西本願寺堺別院。足利義氏の第四子祐氏が本願寺覚如(親鸞の曾孫)に帰依して、一寺を創建したのがその初めと伝えられている。
明治4年より明治14年まで堺県庁がここに置かれており、明治天皇も、堺県におこしになられたとき、ここへ立ち寄られた。本堂は文政8年に再建されたものであるが、堺市に現存する木造建築としては最大のもの。与謝野鉄幹の父が西本願寺の院内僧であった関係で、戦後、晶子の歌碑がたてられた。

大小路まで歩き、安部晴明の辻占いの陰陽の神符を埋めたと伝えられる碑を観て、ザビエル公園で昼食。
ここで、川中島合戦のころ(天文22年頃)、日本ではじめてクリスマスのミサが行われた言われています。

公園をあとにして、菅原神社へ。
祭神は菅原道真、天穂命、野見宿祢の三座である。
延喜年間堺の海岸に、菅原道真自作の木像が漂着した。これを民家のかたわらに祭っていたが、後に常楽寺(菅原神社)の僧が、同寺に移し神殿を造営し、長徳3年新殿に祭ったのが、当社のおこり。
天文元年、大坂夏の陣の戦火などを蒙ったが、承応2年には再建されたが、昭和20年の戦災によって、わずかに現在大阪府の有形文化財に指定されている楼門を残して全焼した。
戦後は、もと戎島にあった恵比須神社もここに移され、1月9日〜11日は戎祭、9月13日〜15日は例祭が行われている。

「天神さん」をあとにして、堺刃物会館を見学し、しばらく歩いて、蘇鉄で有名な妙国寺へ。
広普山妙国寺は、堺の豪商、油屋常言、実兄常祐によって永禄5年に創建された日蓮宗の本山であり、朝廷より勅願寺と定められ、豊臣、徳川氏より朱印地を給せられる。
国の天然記念物に指定(大正13年12月9日)されている大蘇鉄は、樹齢1100年と称せられる。信長が蘇鉄を安土城に移植したが、夜毎堺へ帰りたいと泣き、さすがの信長も畏れて、堺へ返したと言う伝説も残っている。 慶応4年、当時の堺の警備にあたっていた土佐藩士とフランス兵との間に紛争が起こり、フランス兵に死傷者を出した堺事件で責任をとった土佐藩士が、同年2月23日に切腹した場所でもある。

宝珠院を巡り、次は本受寺へ。
陽光山本受寺は寛正2年法華宗・大覚院日陽の開基である。寺宝に、徳川家康より賜受の渡海御朱印状一幅、西ルイスの遺品、ルイス(キリスト教徒)の由緒書の一幅などがある。また境内に巨大な五輪塔の墓碑がある。

最後に堺市役所26階展望ロビーに昇り、今日、半日約6kmの行程を展望し、今日の見学コース「寺町として中世にさかえた堺市」の現況を反芻し、古人の偉大さをあらためて痛感した。

尚、ガイドして下さったお二人のうち、森康子様は今日が記念すべきデビューの日。サブガイドとして参加いただいた、村田信彦様は、ガイド歴11年のベテラン、11年間ガイドしているが、いつも違ったところ「堺市は案内するところが多く楽しいですよ」とおっしゃっていました。自分の生まれ、育ったところを、あらためて勉強させてもらったと、企画していただいた小川会長に感謝――

鈴木 信一

<山口家住宅>
山口家住宅

<西本願寺堺別院山門>
西本願寺堺別院山門

<ザビエル公園>
ザビエル公園

<堺刃物会館>
堺刃物会館

<妙国寺蘇鉄>
妙国寺蘇鉄

<ガイドの村田さん・森さん>
ガイドの村田さん・森さん

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