<兒山家見学・西野文化村跡・周辺散策>
今回の逍遥の会は,平成8年11月を最初に「竹ノ内街道―二上山」を催してから丁度8年を経過する記念するものであるとともに、17回に及ぶ歴史に、先輩諸兄のご努力に敬服いたしました。11月23日(祝)の一日秋晴れのもと、身近な北野田周辺を歩いた。
コースは,去る6月26日(土),ホテル第一堺の関西大学校友会堺支部総会での「織田作之助と西野文化村」についての、ご講演していただいた堺東高校の井村身恒先生の案内つきということで,参加者も14名となり,総会での熱気の余韻が感じられました。
南海高野線北野田駅、午前11時に集合,早速改札口前にある付近地図で先生の説明がなされた。まず,ここ北野田駅は,野田城址で,嘉暦元年(1326年)2月に,楠木氏の武将野田四郎正勝が,初めて築城し,正成とともに湊川で戦死,南北朝時代の戦乱の先端で、戦がなされた地であるとのことです。
その後、出席者の確認,小川会長の挨拶とコースの概略の説明を受け、井村先生から,引き続いて付近地図で史跡の位置関係の説明を受けました。
コースの概略は,北野田駅を午前11:30に出発し、タクシーに分乗し陶荒田神社を見学・参拝し,その後万葉時代の面影の残る周辺の田園風景と起伏の丘陵を眺めながら昼食(12:00)をし,登録文化財の兒山家住宅を見学します。
その後,幕末の時代に伊勢神宮へのおかげ参りとして賑わった伊勢道を辿り、倉橋仙太郎が,大正末期に澤田正二郎の援助で建設した「新文化村」を見学(14:50)し,関西土地開発が、住宅開発した大美野田園都市(東京の田園調布の開発と同時期)の当時の住宅を見学し,織田作之助(1913−1947)が愛妻一枝と新婚時代に住まいとした丈六の六軒長屋(現代食堂・力餅)を見学した後,午後4時駅前で,今日の疲れを取り一献を傾けるとのことです。
今回の散策コースの史跡を、年代によって配布していただいた資料に基づいてもう少し詳しく述べてみます。
まず,一番古いのは,陶荒田神社です。この由緒書によると神社は,崇神天皇の紀元前90年の創建で,延喜式(905年制定)にも載っている古社です。スサノオノミコト10世の孫大田田弥古命が勅命を奉じて大和国大三輪大神主となられました時に,祖先の神霊を斎き祀るため,この陶村すなわち茅淳県(今の堺市付近)陶器郷の大田森に社を建立されたのが当社の起源です。付近に古代人の集落の後や,付近に住んだ豪族たちの墳墓と思われる陶器千塚が現存していましたが、現代は泉北ニュータウン等の土地開発によりその一部しか残されていません。この神社は,陶器の守護神としても,この陶村の重要な地に鎮座しましたことが推定されるのです。
陶器郷は、古墳時代から平安時代に至る長い年月にわたって生活必需品である陶器(須恵器)を焼いていた陶工の集落で確認された窯跡の総数は,百三十有余所に及んでいます。出土の陶器は,弥生式や土師器等と異なり新しく大陸から伝来した高級な技術によって作られたもので,今日の陶磁器の遠源というべきものです。奈良町以前においては,わが国陶器生産の中心地となっていた観があり,陶器川も陶器の運搬のために利用されていたのではないかとの説もあるそうです。
次の野田城址は,南北朝時代の古戦場跡,野田氏三代の居城で,1326年(嘉暦元年)初代野田四郎正勝によって築かれました。南北朝争乱のさなかの野田城は,南朝方の重要な砦で正勝は,楠木正成の武将として湊川で,二代四郎正氏も四条畷で戦死しました。三代兵部正康は,城に拠って北朝の大軍と戦い、戦況利なく城は焼失,兵士も村民もことごとく討ち死にしたとのことです。
次は,丹南郷中騒動と野田村共同墓地です。
丹南藩郷中騒動とは,江戸時代美原町から北野田にかけて丹南藩(一万石,譜代大名高木氏)が置かれ,1769年(明和6年)麦不作から年貢納入拒否となり,激しい百姓一揆が起きました。これを丹南藩郷中騒動といい,全村庄屋・百姓が参加し,庄屋22人が逮捕され,11人が牢死4人が追放2人が罷免などの処分を受け,一般百姓も60数名が,手鎖,追放等に処せられたそうです。この郷中騒動の主謀者を住民が敬い,井上某の墓代わり地蔵を中心として野田村共同墓地を造成しているそうです。
次は,登録文化財兒山家住宅です。
兒山家住宅では当主の兒山万珠代様が,出迎えてくれ詳細に説明してくださいました。当家は,江戸時代に大庄屋として,周辺を治めた小出藩の代官を努めた兒山家の分家の屋敷で,江戸時代後期に建てられた物で、一時の業としていた薬種の道具や兒山銀行の歴史を伝えています。長大な土塀で囲まれた敷地の南に長屋門を構え,中央に主屋,北に土蔵、西に隠居所と通用門を設けています。建物には,天保14年(1843年)の記録があり,江戸末期の完成度の高い民家建築の特色に加え,八畳を主室とする座敷部があり、そこには,格式ある床棚の構えとともに大阪で活躍していた絵師金子雪操の襖絵,繊細な欄間飾りなど秀でた意匠に目を瞠るものがあります。近代に入り縁側にガラス戸が建てられ、またクドが煉瓦積みに作り変えられる改善もみられます。総じて,日本の伝統的住宅の様々な特色を備えている住宅であり,地域に根ざした歴史を伝える民間建築として平成14年,国の登録文化財となっています。今は,納屋などを改造し,民具などを展示する「地域の博物館」を作ろうと,市民らが準備を進めています。中世,堺の自治を支えた豪商・納屋衆にちなんだ「ナヤミュージアム」。近くの高校生らも民具の整理を担当するなど,博物館づくりの輪が広がっており,2007年春頃の完成を目指しています。
最後は,大正末期から昭和初めの「西野文化村」と丈六の六軒長屋の織田作之助です。
西野の文化村は,「文化村の村長」こと倉橋仙太郎が,沢田正二郎と共に新国劇を旗揚げ文化村を建設した「プロレタリア文化村住宅」の廃屋が,今も残っています。大正末期から昭和の初め文化村には,原建作や金剛麗子ら多くの演劇青年が集まり,後の銀幕の大スター大河内伝次郎もその中にいました。また西光万吉が、「水平社宣言」を書いた同じ手で「天誅組」を書き「新民衆劇脚本集」の巻頭を飾ったとのことです。
また、大阪時事新報社会部長をやめ文化村にきた難波英夫の発刊した「ワシラノシンブン」は,その社会主義的・人道主義的世界観と共にイギリスの「田園都市」の紹介を行っています。折しも倉橋らが,先頭にたって小作人たちの農民運動を支援した,その土地こそ「大美野田園都市」(昭和6年ごろ)であります。
一方織田作之助も,この文化の薫りに引かれるごとく,妻一枝と北野田駅前,南河内郡野田村丈六(現堺市丈六)の六軒長屋に新婚家庭を持ったのは,昭和14年7月,この地で「夫婦善哉」等の名著を上梓していくのです。
行程の後半部分では,天井支部長のご参加もあり、参加者は,歴史の移り変わりと因縁めいた操り糸で結ばれているような感じを受け,この第17回逍遥の会の素晴らしさに酔いしれ,北野田駅前で一献をかたむけながら,大いに盛り上がった打ち上げを行いました。
最後になりましたが,終始熱心に解説していただきました堺東高校の井村身恒教諭と,途中から参加していただきました堺東高校3年生の辻林様に、心から感謝しながら結びといたします。
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