<狭山池博物館・狭山池周辺の逍遙を尋ねて>
5月29日朝10時半。狭山市駅集合というゆっくりとした企画でした。小川リーダーを初め全15名で少し遅れてゆっくりとしたスタートした。
先ず、駅を後にして旧狭山公園 今、新しく出来たばかりの公園とスポーツ広場を通り抜けると広々とした狭山池の北東の堰堤に上がると右下方にかの大建築家:安藤忠夫氏の設計による打ちっ放しのコンクリートむき出しの近代アートを思わせる狭山博物館へ。
階段を下りて進むと両側の建物から、淀みなく降りしきる流水を仰ぎまた、この飛沫を肌に感じながら、1階常設展示室に入った。
早速、有井宏子学芸員からの説明。面前に広がる1400年の歴史が重なる堰堤の幾層にも重なるの地層の工法や資材など微に入り、細に入り聞き入った。
先ず、14世紀の約5mほどの層、その上に幾重にも層が重なり、8mほどの高さに積み上げられ第2層、更に18世紀に土盛りされ15.4mの高さまで積み上げられて堂々たる堰堤の立体の断面と62mの幅の実物を目の前に拝見しながら、仔細に亘る説明を聞き感動を覚えた。
また、地階に下りると昔の土壁のように14世紀に造られた地層は10cm位毎に生木の榊を敷き詰めて積み上げたという堰堤の断面を見ると盤石そのもの。
そして西樋、中樋、東樋の3つからなる給排水路は大木をくりぬいた桶やその蓋緻も緻密でかつ現代にも通用する合理的な工法が随所に生かされていた。また、中世鎌倉時代の改修工事には重源の古墳時代の石棺を利用した桶。江戸初期の西桶の部材には大型船の船材までも再利用されていたとはこれまた驚きであった。
そして平成に入り、狭山池は灌漑用水から洪水を調節する治水ダムに生まれ変わるべく池底の土泥をすくい上げて貯水量を180万立方メートルから100万増やし280立方メートルに増やしたそうナ。因みにその満水面積は36ヘクタールで甲子園の3倍になるそうです。
12時過ぎに博物館を後にして一周2.85mの広大な堰堤をノンビリとそぞろ歩きしながら、途中の無料休憩所で昼食。池の湖面に浮かぶ龍神社の祠を眺めながら、子供の頃のなつかしい遠足と重ね合わせながら、コンビニ弁当に舌鼓を打った。
そして亀の甲を横断して、岩室交差点を左折して竹藪で覆われた鬱蒼とした「岩室観音院」へ。ここは和泉霊場第16番で1200年前、行基菩薩が創立し、以後、弘法大師が除厄・安産十一面観音を安置したという。
戦国時代に七堂伽藍を灰燼に帰したが、16世紀に再建後、焼失を重ねて18世紀初頭に再度堂塔を建立し、現在に至っているそうです。重要文化財の本尊十一面観音は秘仏で8月10日と12月31日の年に2回だけご開帳するというこれ又国の重要文化財。 頭部から蓮肉まで檜材の一木造りで彩色のない檀像だそうです。
真言宗高野山派で古い歴史を持つ寺ではあるが、幾たびもの焼失で古文書が無く、定かではないが、はっきりしているのは1500年代の僧を初代とするなら、現住職は26代に当たる由緒ある寺であるそうです。
この観音院は御門に‥
高野山真言宗 観音院
和泉西国
観音霊場 第八番
と記され、
石段を上がると参道の真ん中に「お百度石」そして本堂に向かって石畳。左に赤い前掛けをつけた親子の立像7体が安置され、その上方に4方に流れる袴姿で囲われた上に鐘楼が建つ。大晦日には大勢の人が代わる代わる打ち鳴らす除夜の鐘は108つを超えて祇園精舎の音色が響き渡るそうです。また、右には荘厳さを見せる銀杏を中心とした築山の庭。
そして正面に本堂、阿弥陀堂、左奥に気品あふれる庫裡ともに慶安3年1650年の建立されたという。
入口左に子宝地蔵に
本堂内正面大師 左阿弥陀 右行基
左
右 八角堂納骨堂
阿弥陀堂 護摩堂 本尊不動産 阿弥陀 などバラバラの形で 役行者 本尊は大日
面を変えて顕れる。
この地は堺市と大阪狭山市の境界地点。隣は賑やかな「はいから村」であるが西高野街道沿いで閑静な地域。堺市内とは思えない竹藪があり、この道は陶器山トンネル付近に続く・・・
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