秀麗寮について
秀麗寮創立の経緯
平井三朗さん(昭和28年当時の学生課長)
(寮誌「友愛」第3号より抜粋)
当時の本学の学生は、殆ど大阪周辺の子弟であった。天下の関大たらしめるには、是非全国から学生を集めねばならぬ。それには学生寮が必要である。遠隔地の学生に呼びかけても不利と考え、山田学生部長を説き、同意を得て、大学当局にその必要性を力説したが、なかなか話に乗ってくれない。
当時としては無理からぬ理由もあった。予算関係もあるが、当時は戦後、日もなお浅く、思想的にも激動期で、学生寮を持つ大学の殆どが、一部の思想的学生の占拠するものとなり、大学は手を焼く事例が多かった。
私は出張の都度、各大学の学生寮を調査したが、所轄者は苦労するばかりだと、忠告された。私はかかる風潮は、年月の経過と共に変化することを確信していたし、こういう時代であればこそ、質的に日本一の学生寮を建設してやろうと決心し、山田先生と協力して初志貫徹に、歩を進めたのである。
天の配剤というか理事者改選の時期となり、久井氏が専務理事に就任するに及んで、寮建設が取り上げられた。昭和28年にしてその曙光が見えてきたのである。
鉄井良男さん(初代舎監)
(寮誌「友愛」第6号より抜粋)
秀麗寮の創立については、当時の学生課長であった平井三朗氏が学生部長の山田松太郎先生に強く進言し、専務理事・久井忠雄先生(後の理事長)の説得で理事会を動かし、学生寮の建設が決まったのであります。
当時まだ戦後間もない時で、国公立大学の学生寮が特定の思想集団の住み家となり、調査に回った平井先生に各大学が設立に反対されたという中で、この決定は大英断であったと言えましょう。
昭和27年12月、現在地にあった菅南小学校(大阪市北区)の郊外学園を買収・改造し、昭和28年5月1日、一期生の入寮となり、学歌の「自然の秀麗」から「秀麗寮」と名づけられました。
以後、29年に二号館、30年三号館、31年に四号館を増築。491名が収容できる「秀麗寮」が完成し、毎年の入寮希望者は、入学試験の倍率をはるかに超える有様でありました。
創立50周年に当たり、改めて寮生諸君に私の希望を述べておきたいと思います。
- 秀麗寮(国際交流館・秀麗寮)は教育施設であること
- 秀麗寮は自治寮であること
- 「規律」「真理の追究」「友愛」のために努力すること
年譜
- 昭和28年 2月25日
大阪市立菅南小学校学習園を買収・改造9室
- 5月 5日
初代舎監・鉄井良男着任
- 昭和29年 3月27日
二号館、食堂、浴場棟着工
- 9月14日
一号館2室、二号館13室竣工
- 昭和30年 5月 7日
三号館着工
- 9月29日
三号館10室・ホール竣工
- 昭和31年 7月 2日
四号館着工
- 10月31日
四号館16室竣工
- 昭和32年11月2・3日
第1回寮祭
- 昭和37年 1月 1日
山田松太郎教授(寮創立時の学生部長)逝去
- 昭和40年 9月
台風13・14・15号同時襲来と長期豪雨により、一号館倒壊の危機を救った寮生の行動に対し、学長より感謝状が贈られる
- 昭和43年 5月 3日
秀麗寮創立15周年記念式典挙行
- 昭和44年 3月 9日
寮主事・鉄井良男転任。 原田正勝着任
- 昭和49年10月31日
寮主事・原田正勝転任。 山口敏郎着任
- 昭和53年 3月31日
寮主事・山口敏郎転任。 藤堂秀夫着任
- 昭和59年 3月31日
寮主事・藤堂秀夫転任。 森 茂実着任
- 平成 元年 3月25日
国際交流館・秀麗寮竣工
- 4月 1日
寮主事(女子棟)山上朋子着任
- 平成 3年 4月30日
寮主事(女子棟)山上朋子転任。 北田冨子着任
- 8月24日
久井忠雄理事長(寮創立時の専務理事)逝去
- 平成 6年11月12日
秀麗寮創立40周年記念式典挙行
- 平成 7年 3月31日
寮主事(女子棟)北田冨子転任。 下川美弥子着任
- 平成11年 7月 4日
寮主事(女子棟)下川美弥子転任。
- 平成12年 3月31日
寮主事・森 茂実転任。 山口貴生着任
- 平成14年 3月31日
寮主事・山口貴生転任。 平野義文着任
- 平成15年10月18日
秀麗寮創立50周年記念式典挙行
- 平成16年 1月 6日
鉄井良男(初代舎監)逝去
- 令和 5年 9月23日
原田正勝(2代目寮主事)逝去