心の灯
「花壇町~秀麗寮」パート2
坂根 溥二さん(9期・工)
花壇町駅は何でも6回も駅名を変え、現在の関大駅前となったそうだ。入学時は花壇町駅で卒業時は大学前駅と花壇町駅が統合され「関大前駅」となっていた。
関大秀麗寮は男子寮であり当然女性はいないが、鉄井舎監さん家族と食堂の方達は別である。それでも年1回のダンスパーティーと寮祭には近くの梅花女子大や阪大看護学科には声をかけ来てもらったが男子寮に女子学生が入るとは当初想定外だったと思う。
トイレをどうするかが話題になったが多分2箇所の内1箇所を寮生使用禁止にした(そこに近づくような不埒なやつは居なかったが、女子学生は相当緊張しただろうと思う)。
当時の寮生は仕送りと奨学金(当初2~3千円だった)やバイトでやりくりしてたと思うが奨学金は大学職員さんと銀行の担当が来て夫々手渡ししてたような気がする。バイトではたまに近くのアサヒビール吹田工場からビール瓶洗いの募集もきたが、これはさすがに希望者が多かった。作業終了後ご苦労様と言うことで少し飲ませてくれてたように思う。また、理髪店の研修生実習で、無料で「頭」を提供することあったが髪型については全ておまかせ、どの様な髪型になろうとも一切文句なし。御堂筋に面したビルの室内及びビル周辺の清掃バイトで3Sを学び、特に某工場での真空成型バイトでは多少の技術も習得し、就職時におおいに役立った。
このように寮生ならではの、他では決して経験出来ないようなことを可能にしたのは、同じ釜の飯を食い同じ浴槽に浸かり、面白く楽しい学生時代を過ごすことが出来た4年間1200日お世話になった賜物であろう。途中退寮者もいなかったのがその証左と言えるのではないか。
「関西大学北九州支部」総会は年1回開催されるが、参加者の中には昭和40年前後の卒業者は8~9名いる。内何人かは「秀麗寮に応募したがダメだった、入試より狭き門だった」と述懐していたのも頷ける。尚、当支部には秀麗寮住人は3人いたが、前支部長のS君が亡くなり現在2人、特にS君は7号室で同じ釜の飯を食った後輩、残念至極。思い出は尽きない、乞う次回。
尚、添付の写真は今年8月芸備線、木次線(奥出雲おろち号には接続が悪く乗車出来ず)、山陰線、伯備線飲みテツの途中、鳥取砂丘での1枚。