旅行記

2023年7月投稿

「高松見聞録」

原口 和博さん(20期)

秀麗寮士会会長代理 原口和博

2023年7月15日(土)高松で行われた寮士会四国支部総会にお邪魔しました。

高松は1972年(昭和47年)秋、秀麗寮1回生の部屋旅行で訪れて以来の地。瀬戸大橋(児島・坂出ルート6橋の総称/1988年4月完成。総工費1兆1700億円)から宇高連絡船で渡った海を眼下に眺める旅は、感傷に浸る間もなくあっけなくJR高松駅に到着。

会場はJR高松駅横にそびえる「JRホテルクレメント」。参会された先輩方は初対面にもかかわらず親しく接して頂き、有意義な総会でした。(詳細は「支部報告」ご参照)

日帰りの後悔を怖れ、自弁で同ホテル12階に部屋を取り「高松」を堪能しました。

夜は、総延長2.7km(日本一)のアーケード街を散策。朝は眼下に広がる高松城跡玉藻公園(生駒親正が1587年に築城。お家騒動で1640年改易後は、水戸徳川家御連枝・松平頼重が12万石で入封)を汗だくで散歩しました。

朝食後、同期のK氏ご夫妻のご案内で屋島古戦場を訪問。眼下に広がる瀬戸内の島々を眺めながら世に名高い、源平の「屋島の戦い」に思いをはせることでした。

【屋島の戦い】

1184年2月、一ノ谷で敗戦した平氏は、故地・屋島に逃れ、体制の立て直しを図る。

1185年2月16日夜、源義経は渡辺・熊野・伊予水軍で構成する、わずか5艘150騎で摂津国渡辺の津を進発。通常3日かかるところ、嵐の中をわずか4時間ほどで阿波国勝浦(現在の小松島市)に到着。

義経は在地の武士・近藤六親の兵士らと共に大坂越、引田を経て屋島に進軍。2月19日早朝、寡兵を隠すため白旗多数を立てて大軍と見せかけ、干潮を見計らい屋島に渡り急襲。海上攻撃を想定していた平家軍は陸上からの攻撃に驚き、狼狽して海上へ逃れた。

しかし義経方には追撃できるだけの兵がいないため膠着状態。そうした中、2月22日になり梶原景時率いる140余艘の船が屋島に到着。3月16日、塩飽の庄にいた平家軍を海上から梶原景時が、陸上からも源義経軍が攻撃し、ようやく勝敗が決し、平家軍は100艘あまりで厳島に逃れ、やがて壇ノ浦での決戦を迎えることとなるのでした。

【コシを楽しむ讃岐うどん】

屋島を下り、クルマは一路南に疾走。次にK氏夫妻が案内してくれた先は「うどん中西」 うどん愛ゆえのご案内と感謝はしたものの、それほどの食指は感じなかったのが本音。 ところが「違う」。「うまい!」のです。「丸亀製麺」や「はなまる」とは「似て非なるもの」という実感でした。同社は昭和25年創業。ブレンド小麦を使用。1玉20食分の「うどん団子」をひたすら「踏み」、井戸水を使い、たっぷりの湯で茹でるのが「ウリ」。

「踏み」の工程で、2種のたんぱく質からなる「グルテン」の組織が活性化。網目状の弾力のある組織が誕生。噛むと押し返すような力強さがうどんに生じるのだそうです。

ところが踏みすぎるとグルテンが破壊され、「コシ」は失われ、うま味もないうどんになってしまうのだそうですから不思議。食べてみて「なるほど」と実感でした。

讃岐国を後にした今は、その辺の「うどん」で我慢するしかありませんが、そのうち「また、讃岐うどんがたべたいなあ」と思うことでしょう。感謝!!

「高松見聞録」原口 和博さん(20期)
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